田沼意次は、外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、蝦夷地(北海道)を開拓し、更にはロシア帝国との貿易も行おう...
田沼意次は、賄賂汚職の悪徳政治家とするのが通説でしたが、意次の賄賂政治を語るものとして一般化していた逸話の数々を否定す...
十代将軍家治は、元文2年(1737)、九代将軍家重の嫡男として江戸城西ノ丸に生まれました。幼少時よりその聡明さから、八...
九代家重は、正徳元年(1712)に紀州徳川家の五代徳川吉宗の長男として江戸で生まれ、吉宗の将軍就任とともに江戸城に入り...
「小物成」は、毎年定額で賦課される狭義の小物成(小年貢)と、臨時に賦課される「浮役」に区分できます。狭義の小物成は、田...
江戸時代においても、太閤検地による村落支配体制は継承されており、村には課税及び知行の基準となる「村高」が定まっていまし...
吉宗は、新井白石の政策を悉く否定したように捉えられがちですが、その傾向が強いというだけで、必要な政策は継続しています。...
新田開発や定免法によって年貢の収入が増えても、米が飽和状態で米価が下がり、また、一般の商品の値段は米価とは連動せず、こ...
旗本・御家人へ俸禄の支給も滞るほどの状態に陥って、吉宗は享保7年(1722)に老中水野忠之を財政専管として本格的財政再...
国の財政を建て直すための財政再建は現代でも行われます。消費税の創設や税率の引上げなどはその典型でしょう。江戸時代にも同...
幕府の役職人事が知行高のみならずその職務能力なども考慮して行われるようになると、優秀な人材を抜擢して要職に就けた場合、...
松平頼方は、貞享元年(1684)に御三家の一つ紀州藩主徳川光貞の四男として和歌山で生まれ、兄の相次ぐ死により、宝永2年...
幕府の官僚制度は、身分に応じて役職があり、役職に応じた格式がありました。家筋と家格に応じて最初に就く役職が決まり、役職...
徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍となると、江戸を政治や経済の中心地にするため本格的な都市づくりを開始しまし...
六代将軍家宣と七代将軍家継の治世の「正徳の治」は、政策の多くが家宣の代に白石が建議し、家継の代に日の目を見たものです。...
徳川家宣は、寛文2年(1662)に家光の三男の徳川綱重の長男として生まれました。宝永6年(1709)に綱吉が亡くなり、...
江戸幕府初期から続いた豊かな鉱山収入も、この時期に減少し、幕府財政の収入減に繋がりました。また、明暦の大火後の江戸城や...
貨幣経済の発達に伴い、江戸は100万都市に、京都と大阪は30万人規模の都市に発展し、各地の城下町も繁栄して、町人の経済...
綱吉が家綱から引き継いだ遺産は100万両に欠けていたと考えられますが、金蔵の金銀は、相変わらず1年に約10万両のペース...
延宝8年(1680)に家光の長男、四代将軍家綱に跡継ぎがなく40歳で死去したため、四男の館林藩主綱吉が五代将軍に就任し...
俸禄は家禄と職禄の合計です。家禄とは、先祖の功によりその家に対して支給される基本給みたいなもので子孫に世襲され、職禄と...
慶安4年(1651)に家光が48歳で死去すると、家綱が11歳で四代将軍に就任し、将軍世襲制が磐石なものであることを世に...
家光の浪費を貨幣経済という観点から見ると、実は大いにプラスに働いたと考えられています。  家康から家光の時代にかけて三...
三代将軍家光は、寛永9年(1632)1月に大御所秀忠が死去すると、「余は生まれながらの将軍で、諸大名は家臣である」と宣...
鎖国とは、キリスト教国の人の来航及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を統制、管理した対外政策であると理解...
徳川秀忠は律儀さを強調する逸話が多く、家康と家光の間で軽視されてきた感じがありますが、元和9年(1623)に将軍職を家...
徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きました。江戸時代の政治体制はいわゆる幕藩体制と...
豊臣秀吉は大阪城や伏見城に莫大な財産を残しましたが、大坂夏の陣で大坂城が焼け落ちた際に、書庫にあったと思われる記録や文...
徳川幕府の支配体制は、最高権力者としての征夷大将軍と、それに臣従する大名、旗本、御家人があり、それぞれに陪臣が臣従した...
幕府において財政を担当していたのは、勘定所と呼ばれる組織で、江戸城内の御殿勘定所と大手門番所裏の下勘定所とがあり、トッ...
温故知新とは、「古きをたずねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」と訓読される論語の一節で、一般には、「昔のことをよ...