8 清和天皇  天安2年8月 惟仁親王が即位して清和天皇、9歳の幼帝。880年没、31歳。  2年11月 藤原良房が摂政...
承和1年7月 藤原良房を参議に任じる(31歳 7年8月 中納言 嵯峨の寵臣)。  良房は冬嗣と南家真作(摩作)の娘美都...
弘仁2年 文室綿麻呂を征夷将軍に任じ、2万の兵を派兵、蝦夷の賊は全滅、38年間の辺境騒動が収束したとする。  6年7月...
大同2年10月 伊予王事件  伊予王が謀反の罪を密告され、母藤原吉子(藤原武智麻呂の南家出身 桓武の夫人)と共に幽閉、...
空海(讃岐国多度郡出身)は、伊予親王の庇護で大学に学び、その後、31歳で得度、留学僧として渡航した。青龍寺の恵果から真...
延暦16年11月(797年) 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じる。4万の兵力で勝利。20年9月 田村麻呂戦勝報告、11月...
延暦4年11月 安殿親王を皇太子とする。  5年1月 藤原旅子(藤原百川の娘)を夫人とする。  7年5月 夫人藤原旅子...
(2) 長岡、平安遷都  延暦3年(784年)5月 長岡視察、6月藤原種継(式家宇合の孫叔父が良継、百川で桓武の信頼大...
延暦1年1月10日の夜、衆を集めて平城宮北門より侵入、桓武を退位に追い込むとの陰謀が露見、川継は逃走したが捕えられ伊豆...
天応1年4月(781年)  光仁は、高齢、体調不良(風病)を理由に山部皇太子に譲位。  桓武即位、45歳。  皇弟の早...
宝亀5年7月―8月 日本海側、次いで太平洋側の蝦夷の侵攻争乱が生じ、征討命令。以降、頻々として蝦夷の争乱が起こる。  ...
1 光仁  宝亀1年10月(770年) 白壁王が即位して光仁天皇。天智の孫(施基皇子の第6子)。709年生れ、780年 ...
聖武の後は、藤原氏の暗躍もあって聖武直系の皇子がいなくなり、阿部皇女(孝謙、称徳)が皇位を引き継いでいる。  聖武は周...
宝亀1年8月21日 道鏡は密かに久しく皇位を窺う心を抱いていたが、刑罰を加えるには忍びないとして下野国薬師寺別当に左遷...
宝亀1年8月4日(770年) 称徳 没、53歳。  皇子、皇女はなく、後継指名もなかったため後継問題が生じた。右大臣吉...
称徳は和気清麻呂に「昨夜の夢に八幡神の使が現れ『大神は天皇に奏上することがあるので尼の法均(称徳に仕えていた清麻呂の姉...
天平神護1年8月 和気王(舎人親王の孫)が皇位を狙い、称徳と道鏡を呪詛したかどで逮捕され、伊豆へ配流する途中、絞殺され...
天平宝字8年9月11日 押勝謀反がはっきりしたとして、孝謙は軍事対決に踏み切る。淳仁の御所から駅鈴と内印を回収、押勝は...
天平宝字4年6月(760年) 光明皇太后 没、60歳。  光明の死去により、仲麻呂は自分の支えであると同時に孝謙との重...
天平宝字1年(757年)5月 養老律令施行。  7月 橘奈良麻呂の変  奈良麻呂は諸兄と不比等の娘の多比能の子で、孝謙...
天平勝宝8年2月 左大臣橘諸兄 辞職を願い許される。  酒席で太上(聖武)天皇について無礼な発言をしたと密告され、太上...
光明は皇太后の役所として紫微中台を設置、藤原仲麻呂を長官に任命、孝謙を支える体制を整える。仲麻呂は皇太后を後盾として権...
天平17年9月 平城京に戻る。度重なる遷都、造都、仏教興隆のための事業により民は疲弊、巷には怨嗟の声が多かったとされる...
天平15年10月 紫香楽宮の傍らに盧舎那仏の金銅像造立の大願を発する。  行基が弟子たちを率いて大仏造立の寺地を拓くこ...
書紀の「広嗣が大宰府少弐に左遷された」という記事については、父の宇合は武人で式部卿から西海道節度使として大宰府を任ぜら...
橘諸兄は敏達の子孫の美努王と犬養三千代の子で皇孫葛城王であったが、天平8年11月 臣籍降下を願い、橘諸兄となって三千代...
日本は中国を模して中華思想をとり、新羅、渤海には朝貢の外交関係を求め続けた。このため、その後、新羅との間に幾多の争いご...
聖武の勅は仁徳の皇后磐之媛は葛城曽豆比古の娘で、皇族出身でない皇后の先例はあると述べている。  藤原宇合、麻呂が参議に...
安宿の立后、阿倍内親王の即位を目指す藤原一族にとって、長屋王とその一族の存在は障害であった。  729年2月に長屋王事...
奈良時代には仏教の教義研究が進められ、三輪、成実、法相、倶舎、華厳、律の南都六宗の学派が形成されている。  (2) 即...
1 聖武天皇  ―天璽国押開豊桜彦天皇   (1) 聖武の人となり  聖武は、文武(草壁の皇子)と藤原不比等の娘の宮子と...
橘三千代は、中級貴族県犬養東人の娘で、敏達の子孫の美努王と結婚。美努王との間に3人の子があり、後に、その1人が臣籍降下...
持統の絶大な信任を得て内内の相談にあづかり、文武を輔弼。大宝1年大納言となり議政官として朝政に参画。元明、元正時代は右...
養老5年 右大臣に長屋王、中納言に藤原武智麻呂(不比等の長男、温厚、対話・読書を好むとされる)、参議に房前(不比等の次...
元明には氷高内親王と吉備内親王の2人の娘があり、吉備は文武即位に際して長屋王の妻となっている。  元明は、文武と不比等...
太政官の重要人物や有力王族に支給される公邸は相続、売買不可であったが、その他の宅地は売買、相続の対象であり、売買は盛ん...
成人男子1日の人夫の労賃として銭1文が支給されたが、和銅開珎の銅銭がこれに当てられ、都城建設の重要な財源となったとされ...
元明は文武の遺詔により皇位を継いだ。  元明即位の宣明には、「文武は草壁皇太子の嫡子であること、持統から文武への譲位は...
⑤服装  皇太子以下は礼服として中国的な正装を用いることを定めたが、天皇は日本固有の服装(白)で中国的な服装は想定して...
律令制施行下において少初位から1位まで官人は凡そ1万人いたと見られているが、朝の寅の刻(午前4時頃)から南門の外に左右...
ロ 律令制下の公民の主な負担  ①租 田にかかる租税で、田1段につき2束2把(収穫の約3%)。  諸国の正蔵に貯備。国...
律令編纂の目的は、先進国唐の統治術を輸入し、古代国家の骨組みを作り上げることであった。  古くからの氏族制を継承しつつ...
律令制度の確立―大宝律令  (1)律令編纂の経緯  書紀では、日本で初めて編纂された令は天智による近江令で、天智10年に...
大宝2年には金、銅、錫、明礬、朱、硫黄など鉱物資源が広くから献上されており、全国的な鉱物資源調査が行われたと推察されて...
大宝1年 3月21日  対馬が金を貢じたことで新元号をたて、大宝元年とする。  大化、白雉以来のことである。産金は偽り...
持統は、天武を日の御子(現人神)とし、天武により日本国が建設され、皇位は草壁に始まると認識し、草壁の嫡子のみを正当な...
持統8年12月 藤原宮に遷都。  10条10坊、広さは5・3平方キロ。人口は3―5万人と推定されている。ここに中国的都...
686年9月24日 天武の殯宮で大津は草壁に無礼な言動があったとされる。直後に伊勢国へ出奔。伊勢神宮の斎王である姉の大...
天武12―14年(683―685年) 国境画定。  官人と技術者に全国を巡行させ、諸国の境界を定めた。  国―評―50...
天武10年2月 草壁を皇太子とし、一切の政務に預からせる。草壁は温順凡庸な人物であったとされる。  当時は皇太子制度の...
天武4年3月 栗隈王を兵政官長に任命。  10月 諸王以下全官人に武装を命じる。  5年9月 京畿内の武備点検。  8...
天武天皇  ―天淳中原瀛真人天皇  673年即位、686年没、56歳(生まれは631年頃とみられている)。  天武2年2...
古事記は天武の意図を踏まえて古来の伝承を集大成したものであろうが、日本の正史と位置づけられる日本書紀では天皇支配、天武...
天武の動静は日本書紀の天智の章には殆ど記されておらず、この時期の天武の立場は必ずしも明らかではない。  天智没直後に起...
(1) 国際情勢  天武の生きた時代(631―686年)、持統の生きた時代(645―702年)は、大陸では唐が覇権を確立...
天智臨終の際の会談で天武に求められたのは、大友の後見、補佐の役割であった。天武は、こうした立場を受け入れることを拒否し...
天武は開戦の理由を大友側近の奸臣排除としている。天智、大友の王権を否定してはいない。天武は自分は王権の簒奪者ではなく、...
672年6月27日 尾張国司小子部鉏鉤は近江朝廷方であったが、実力を持つ尾張国造の尾張連氏、大海氏などが大海人方につい...
第4章 壬申の乱  壬申の乱は天武政治の出発点である。  この乱に勝利することで天皇即位を実現し、天武政治を展開すること...
近江令施行  鎌足に編纂が下命されたと言われるが、完成しなかったとみられている。  書紀には近江令の編纂を明記する記事...
天智7年2月 古人大兄皇子の娘の倭姫王を皇后に立てる。前天皇の娘を皇后に立てたくても適者がいなかったため、それに次ぐ近...
天智3年(664年) 甲子宣   26階の新冠位制度(下位の冠位数を増やし中小豪族掌握を企図)、各氏の氏上決定(畿内中...
天智1年(662年)5月 豊章が百済王となる。  12月 豊章は独断で率城から避城へ遷都。避城が敵地に近いことから遷都...
朝鮮半島に手を伸ばし始めた唐と外交的接触で打開を図ろうとした孝徳に対し、中大兄等は、遷都や防備、武力の強化で対応しよう...
孝徳朝の政治改革の主体は孝徳であり、中大兄皇子は、公地公民を基盤に天皇集権へ向かう急進的改革に対する抵抗勢力、改革を抑...
事件に連座したとして斬殺14人、絞首9人、流罪15人の処罰が行われている。処罰が厳しく、また、広範囲であることから、事...
改新の詔の実行には文書による行政が必要であった。  5世紀には地名や人名を漢字の音で表記することが始まっていたとみられ...
Ⅲ 戸籍・計帳、班田制の制定  50戸を里とする。戸毎に戸籍を作成、男・女・奴婢1人づつに土地を支給(6歳以上の男子に...
大化1年7月 舒明の娘の間人皇女を皇后に立てる。  8月 仏教興隆の詔。  9月 古人大兄皇子が謀反を企てたとして、中...
645年の乙巳の変を経て孝徳、斉明、その後に天智が即位するが、日本書紀では乙巳の変で中大兄皇子(天智)が政治の実権を握...
その背景として中大兄は舒明、皇極天皇夫妻の嫡子で、やがて皇位を継ぐべきステータスにあり、また、当時は若年で天皇即位には...
蘇我氏に仕える東漢氏は蝦夷に徹底抗戦を説くが、改新側の巨勢徳太の説得で蝦夷は交戦せず、自宅で自殺。蘇我宗家はここに滅亡...
また、当時、入鹿の専横、蘇我宗家と分家の格差拡大から宗家支配への反感が高まっていたとされる。  こうした状況の中で、中...
また、入鹿が父の蝦夷と自身の双墓を造営した際、国を挙げて役丁を徴発しようとしたが、山背大兄皇子の上宮王家は所有の壬生部...
新羅は高句麗、百済からの攻勢を受けて唐に接近。王族金春秋が権力を集中、唐に倣った国家体制を築く。  蘇我蝦夷はこうした...
舒明11年 百済大寺造営。百済大寺は、百済や新羅の国家的大寺院造営に張り合うと共に、蘇我氏の飛鳥寺を強く意識して建立さ...
推古の即位(592年)以降、元明が平城京へ遷都する710年までの117年間、歴代の天皇は飛鳥とその周辺に宮を営んだ。 ...
4 推古の後継  推古の後継者候補は、敏達の孫で、押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子と聖徳太子の子の山背大兄皇子であった。書...
前方後円墳築造は、6世紀末から7世紀初の推古時代に各地一斉に終焉している。その後、大王墳墓は方墳となり、7世紀中頃(舒...
12条 国司や国造は百姓から税を貪ってはならない。  13条 それぞれ官に任ぜられた者は、皆、自分の職務内容をよく知れ...
推古11年(603年)12月 冠位12階制定(徳、仁、礼、信、義、智の各々に大小の12階とし、色で表示)。百済の制度を...
推古15年(607年 煬帝大業3年) 遣隋使小野妹子派遣。  「日出ずる処の天子、書を、日没する処の天子に致す。つつが...
推古16年 新羅は倭国に使者を送り、19年には任那とともに倭国に朝貢。  26年8月 高句麗使者来日、高句麗が煬帝の3...
太子は上宮(桜井市)に住むが、推古13年(605年)に斑鳩宮へ移る。  斑鳩宮は奈良盆地西部にあり、河内から大和川を遡...
推古は皇后の経験を経て天皇となった最初の女帝である。皇后9年、前皇后7年の経歴の後の即位であり、血統、年齢と共に執政能...
推古、馬子は、小姉君系を大王とすることで堅塩媛系との対立の激化を防ごうとしたものとの見方もある。  崇峻1年(587年...
用明2年5月 守屋は穴穂部に淡路島で共に狩猟をしようとの使者を遣し、穴穂部擁立の行動を起こそうとしたが事前に漏れ不発に...
2 用明天皇  橘豊日天皇。   欽明の第4子、母は堅塩媛(媛の長子)、推古の兄。蘇我氏血縁の最初の天皇である。  5...
日羅は、敏達の諮問に「倭国は3年間国力充実に努め、その後、多数の船舶を建造、百済に示威すれば百済は倭国の指示に従うであ...
第2章 敏達、用明、崇峻の時代  (1) 敏達天皇  淳中倉太珠敷天皇   欽明の第2子、母は石姫皇后(宣化の皇女)。 ...
蘇我氏の名が、中央政界に登場するのは稲目からである。  武内宿弥の子の河内の蘇我石川宿弥を祖とし、石川宿弥―満智―韓子...
第1章 古代大和王朝の確立へ  近江出身の継体が大王となり雄略没後の混乱が収拾された。継体以降、大王一族以外の者は大王位...
4世紀後半以降、高句麗、百済、新羅の3国鼎立という朝鮮半島情勢のなかで、半島南部の伽耶地方からの鉄資源の安定供給を確保...
4 考察  黎明期の古代倭王権について、以下のようなことが言えるのではなかろうか。  纏向遺跡は2世紀末から3世紀初に出...
安閑、宣化、欽明の時代には屯倉と部(大王の直轄支配地と民)の設置記事が日本書紀に多く現れるが、それは首長の大王への服従...
また、書紀は、ある本では継体28年(534年)崩御と記述する。この場合、安閑即位までの3年の空位の不自然は解消される。...
ロ 継体天皇  ① 継体天皇の出自について  継体天皇は応神5世の子孫とされる。応神天皇からはかなり遠い血筋である。 ...
② 神功皇后、応神天皇を新しい王朝の始祖とみる説  Ⅰ 応神天皇の父とされる仲哀天皇の名はタラシナカツヒコ、その前の成...
(4) 王朝の血統の継承  記紀では、倭王朝の支配の正統性を示すため神武天皇は天孫ニニギノ命の直系であり、天皇家は神に...
初代の仁徳は、高殿から炊飯の煙が見えないことから民の困窮を知り3年間課役を免除した、民のための治水事業を起こし難波の堀...
その一つが歴代天皇の寿命、在位年数を現実にはあり得ないほど長くしていることである。  100歳の長寿、60年から90年...
水稲耕作が北九州から近畿へ伝播しつつある時代である。水稲耕作と鉄器使用により日本各地に大首長国、所謂国が成立する時代の...
(1) 大和王権は神武東征により創られたとする記紀の記述が物語ろうとするものは何か。  記紀は、天照大神の孫のニニギ尊...
第4章 記紀の記述についての考察 1 日本書紀に記述する歴史の流れ  日本書紀に記述する古代倭王権の成立の経緯を整理する...
蘇我、物部の争いは、本質的には両者の勢力争いであり、仏教受入れの争についても、そうした動きの一環として捉えることも可能...
欽明13年10月(552年)  百済聖明王から釈迦仏の金銅像、経典が伝えられる(仏教伝来については538年説もある)。...
40カ所の屯倉を設置。  中でも、安閑2年5月に26カ所設置(筑紫2カ所、豊国5カ所、火国1カ所など)。 この記述は磐...
継体23年(529年)3月 毛野臣を安羅に派遣。  毛野臣による任那復興はならず、帰還もせずの状態が続き、毛野臣は召還...
既述のように、継体21年6月に毛野臣が6万の大軍を率いて任那に向かったとするが、その軍がその後どうなったのか書紀の記述...
継体22年12月 磐井の息子の筑紫君葛子は糟屋の屯倉を献上して死罪を免れる。  筑後風土記では磐井は豊前国に逃げ、南の...
継体20年秋 大和国磐余の玉穂に宮を移す。継体天皇は大和入りまで相当の年数を要している。  継体の支援勢力は、大伴、物...
継体1年3月 手白香皇女(仁賢の3女)を皇后とし、8人の妃を召しいれる。  元からの妃の目子媛(尾張連草香の娘、皇子が...
男大迹王は応神5世の孫とされる。応神天皇の皇子の若野毛二股王の子孫で、父の彦主人王は高島郡に所在したとされる(父王の時...
13 武烈天皇  小泊瀬稚鷦鷯天皇。  法令をよく知り、罪人の理非を判定、無実の罪を明らかにし、朝から日が暮れるまで政事...
清寧1年1月 清寧天皇即位。大伴室屋を大連、平群真鳥を大臣にする。  11月 播磨国明石郡で、大嘗祭の供物を整えるため...
稲荷山古墳(武蔵国)から発見された鉄剣、江田船山古墳(肥後国)で発見された鉄剣には「ワカタケル」の銘があり、これは雄略...
雄略13年に播磨の文石小麻呂、18年に伊勢の朝日郎を討伐。  外交面では  雄略8年 新羅と高句麗が争い、新羅から援軍...
10 雄略天皇  大泊瀬幼武天皇。允恭天皇の第5子。まず、同母兄の八釣白彦皇子を、安康殺害の件で詰問するが黙秘したため殺...
仁徳没後、履中は即位前に黒媛を妃としようとして同母弟の住吉仲皇子を遣わした処、仲皇子は命令に背き黒媛を犯し、太子を弑そ...
8 仁徳天皇  大鷦鷯天皇、応神の第4子。  太子で弟である莵道稚郎子は兄「仁徳」の即位を促し、兄は父「応神」の意向を踏...
肖古王の没年は西暦375年である。書紀はこれを神功55年没と記載する。神功55年は書紀の干支からの推計では西暦255年...
神功39年、40年、43年 魏志倭人伝に記される卑弥呼の魏への使者の派遣を神功皇后の事績として記している。  47年 ...
仲哀9年 香椎宮において仲哀、神功、武内宿弥同席の場で、「新羅を討つべし」と神託が降りるが、仲哀はこれに従わず、熊襲征...
鹿島灘を北上、船の舳先に巨大な鏡をつけて進み、蝦夷部族を降伏させ、信濃から美濃を経て尾張に帰還する。その後、伊吹山の荒...
4 景行天皇  第12代大足彦忍代別天皇、垂仁の第3子。21歳で皇太子。宮は纏向。  景行12年―19年に九州遠征。12...
垂仁3年 新羅の王子の天日槍が神宝(玉、刀など)を持って来日。これを但馬の神宝とした。  天日槍は一人に象徴された新羅...
4道将軍の一人、吉備津彦により吉備の旧来の豪族は征圧されたことから、吉備の大規模な前方後円墳は地元豪族のものではなく、...
5年 疫病が流行し「民の死するもの半ば以上」、6年 百姓の流離、反逆するものありと記される。  7年 崇神天皇の姑の倭...
瀬戸内海を進み、河内の草香に上陸、生駒を目指すが、大和の饒速日、長髄彦の軍に敗れて撤退、紀伊半島沿いに南下、熊野に上陸...
第3章 記紀に記す古代天皇の治世  記紀の歴代天皇の記述が現実の年代に符号してくるのは雄略の頃である。その後、近江から継...
(4) 神武天皇の即位は紀元前660年とされる。  これは辛酉の年に大きな変動があるという中国思想にのっとり、紀元後最...
出雲の大国主命から国譲りを受けて、天照大神の孫のニニギノ尊が葦原中津国の日向の襲の高千穂峰(古事記ではクジフル嶽)に降...
古事記は天地開闢から推古天皇までを記述する。  上、中、下の3巻からなり、上巻は神代、中巻は神武から応神天皇まで、下巻...
古事記は様々な古事を記憶する稗田阿礼の口述を記すものとして大野安麻呂によりまとめられ、和銅5年(712年)に元明天皇に...
第一章 記紀の成立事情とその構成 1 古事記、日本書紀の伝える古代ヤマト王権  日本の古代ヤマト王権の姿を記すものは古事...
(3) この時代の大和王朝の大王は、応神、仁徳に始まり倭の5王とされる履中、反正、允恭、安康、雄略などである。  履中...
4 4世紀終頃から5世紀の日本  (1) 4世紀終頃から5世紀の百数十年間の倭(大和王朝)は、朝鮮半島での高句麗、百済、...
420年に百済は鎮東大将軍に除されており、倭が百済の上位の将軍に立つことは認められなかったのであろう。  また、倭隋等...
395年 好太王が周辺征討開始。  396年 王は百済侵略、百済降伏、男女生口(奴隷)1000人などを献出し再び高句麗...
七支刀は、長さ75センチメートルの鉄剣で剣身の左右に3本づつの枝が出ている特異の形の剣であり、銘文に泰和4年(369年...
第三章 好太王碑と倭の5王 1 4世紀の朝鮮半島情勢―百済、新羅の出現  4世紀の朝鮮半島の情勢と日本の対応をみてみよう...
4世紀中頃になると朝鮮半島に群小の国々を統合して百済、新羅が誕生する。  4世紀末には半島の北部に居た高句麗が南下して...
(3)前述のように、中国の史書は、2世紀後半乃至末に倭国大乱があり、その後、邪馬台国の卑弥呼が倭の王に共立されたとする...
出雲国は4世紀半ばに大和朝廷の支配下に入った。出雲氏は首長達に対する統率力が弱かったため、進んで大和朝廷と結び、自家の...
出雲、神門両氏は、出雲の各国の神々の上に大国主命の神を作り、まとまった神話を作り、大国主命の祭祀を通じて出雲全体を抑え...
北九州と邪馬台国連合との鉄を巡る争いを倭国内乱とみる白石説に対して、内乱を示す物証が乏しく、そこまでいえるのか疑問であ...
乱の結果、邪馬台国連合の力は近畿中枢部、瀬戸内沿岸、北部九州に及び、邪馬台国連合の盟主は外交権と原料鉄や先進文物を入手...
4世紀後半から5世紀前半には、葛城、吉備、上毛野(群馬)、九州など各地で大きな前方後円墳が造られている。  しかし、5...
水野正好氏は、崇神の即位年(甲申年)、没年(戊寅年・ボイン)に該当する西暦年を264年と318年とみて、台与の西晋への...
2~3世紀の環境変化が統一国家形成に影響を及ぼしたとする見解もある。この時期は東アジア全体が寒冷化、天候不良が生じ、日...
箸墓古墳に続いて、奈良盆地東南部に3世紀後半から4世紀前半にかけて、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、行灯山(崇神陵)、渋...
第二章 古墳時代、ヤマト王権の始まり 1 前方後円墳の出現  弥生時代終わりの2世紀後半から3世紀前半には、出雲には40...
建物の周囲からは祭祀に使われたとみられる供物、器材で使用後に埋土されたものが発掘されている。  その中には約3000個...
弥生時代から古墳時代の遺跡から発見される農工具は、鍬が70%、鋤が30%程度であるのに対し、纏向遺跡から発掘されたのは...
3世紀には大和の纏向が繁栄、前方後円墳の築造が始まる。弥生時代から古墳時代への移行である。  ヤマト王権の始まりであり...
へ 卑弥呼の後  魏志倭人伝によれば、卑弥呼の死後、倭国は乱れ、卑弥呼の宗女(一族の女)台与が女王となることで国がまとま...
九州説には、九州のヤマト(筑後国山門郡、肥後国菊池郡山門郷)の地名に着目する説、筑後・肥後に跨る広い地域が邪馬台国であ...
帯方郡から北九州まで1万里、そこから邪馬台国まで2千里、邪馬台国までの全行程は万2千里とされている。魏の1里は400メ...
ハ 当時の中国人の倭国の所在地の認識  魏志倭人伝には倭国は「その道里を計るに会稽の東治(福建省ビン候付近)の東にある...
ロ 女王卑弥呼  (1) 女王卑弥呼の時代  魏志倭人伝では、「男子王のもと、倭国が乱れ相攻伐すること暦年に及び、共に...
後漢書には安帝の永初1年(107年)、「倭の国王帥升等、生口160人を献じ請見を願う」とある。帥升は伊都国王と解されて...
2 卑弥呼と邪馬台国についての考察  魏志倭人伝の記述を基に、後漢書などの記述や、遺跡発掘から判明した事実などを加えて、...
ハ 魏と倭国の国交  景初2年6月(239年) 倭女王卑弥呼は大夫難升米他を派遣、帯方郡経由で12月魏の都洛陽に至り、魏...
ロ 倭国の国情  風俗について  男は刺青、服は貫頭衣。稲・麻・蚕等があるが、牛、馬、虎、豹、羊はいない。  倭の地は温...
倭人伝の内容は、  イ 朝鮮半島の魏の支配地である帯方郡から倭の邪馬台国までの道程と倭国の構成  ロ 倭国の国情  ハ...
邪馬台国の話から始めたい。  邪馬台国は何処に在ったのか、それはいつ頃のことなのか、どのような国であったのか、卑弥呼は...
古代史は面白い。現代を遠く離れた遥かな世界であるが、われわれの遠い祖先達が関わった世界であり、言い知れぬ郷愁やロマンを...